鉄道博物館




 

N 鉄道博物館企画展→寝台特急さくら引退記念関西・長崎年始観光旅行
    寝台特急さくら旅行

寝台特急さくら引退記念関西・長崎年始観光旅行記

平成1714日。朝、4時に起きた。昨晩設定しておいた9つの目覚し時計が一斉に鳴り響いた。空気は非常に冷えていたがなぜか今日に限って全然平気だった。着替えた後、おにぎりを食べ、インターネットで情報収集した。出発の1時間前に起きてしまったため、時間が半時間近く余った。最後までセーターを持って行くか行かないか親と言い合いになったが結局長袖の防寒下着を持っていくことにした。この下着は後に悲劇を迎えることになる。

4時50分に家を出発した。2泊3日の旅で荷物が普通のリュックサックに収まったのはこれが初めてだった。なにしろ列車に乗るだけだから大した着替えも必要ない。歩いて12分、相鉄線和田町駅で5時13分発(始発)、上り横浜行きに乗った。次の電車は33分発で横浜駅42分集合には間に合わないので仕方なくこれに乗った。23分に横浜駅に着き、また半時間待った。Y君が次につき、K君と前日に急遽路線変更をさせたM君が同じ列車で到着した。正直、旅で一番心配したのがここで4人集まることだったが安心した。青春十八切符を取り出し、4人分の判子を押してもらい入場。毎朝見る横浜駅が真っ暗の空に包まれ、蛍光燈が煌煌と輝いていた。しばらくすると驚くことに通常、特急東海と名乗り、横浜駅を偉そうに通過する373系が普通となってやってくるのである。

JR東日本東海道本線普通横浜駅5時47分発静岡行き。なぜか特急車両が来た。おそらく東京の方の車両基地から湘南の方へ持っていき、上り運行の時に通勤特急として使うのだと思われる。さすが特急車輌。椅子は航空機でいうビジネスクラス並みのもの。回りを見渡すと驚いたことに私達と同じ立場の人が結構いるのである。青春十八切符を握りながら携帯用の時刻表を熱読しているのである。他にもいろんな人がいたが皆ぼーっとしていて何をしに行くか、どこに行くのか自分でも忘れてしまったような人が多かった。車内は早朝の静かな雰囲気が漂っていたが、Y君、M君が幾何の課題を解き始め、大きな声で論じ合い、その雰囲気を壊した。茅ヶ崎あたりに列車が到着したころ真っ暗だった空が青味がかり、その後急速に明るくなりはじめた。乗客は増えもせず、減りもせず静岡駅に着いた。静岡駅の様子は余り覚えていない。なぜ、旅の途中にメモを取らなかったかは後程話す。

JR東海東海道本線普通静岡駅8時28分発浜松行きに乗る。普段見る211系だった。またこれに1時間以上乗るのである。まるで貧乏旅行しているみたいで笑いそうになった。実際笑った。ひたすら乗り続けるとガタンゴトンと大きな音を響かせながら鉄橋を渡る。見てみると江戸時代、東海道の道中、渡るのに苦労した大井川ではないか。当時はこれだけに1日近くもかけ、渡ったらしいが今我々は数十秒で渡り終えてしまった。交通機関は残酷だなとつくづく考えさせられた。渡り終えると何やら古めかしい極端な旧式列車が走っているではないか。SLで有名な大井川鉄道であった。是非とも降りてみたかったがここらへんは列車の本数が乏しく、次の列車に乗ると計画が乱れてしまうためそのまま通過した。大井川鉄道は各私鉄から旧式の列車を買い取り、運転している。9時半ごろ、浜松に着いた。名古屋まであともう一本。
JR東海東海道本線新快速浜松駅9時50分発大垣行き。ええっ、また373系の特急車両!と思いがちだがこれは313系で中距離電車(近郊型列車)。二つを見分けるのは難しいがフロントガラス上部のヘッドライトに注目する。一つしかなければ313、左右に分けられているならば373系となる。先頭車両の塗装も微妙に違う。もちろん車内の座席配置も異なる。決定的なのはヘッドマークの有無。あればもちろん373系、なければ313系である。車内はひどく混んでいてドアの前に立たざるをえなかった。後ろには三十代後半から四十代前半と思われるおばさんの集団がいたのだがこの話す内容が非常につまらない。「あっ、晴れてきたね」「そうだね、さっきまで曇ってたけど」「でもなんか寒そう」「うーん。そうだね」「私こんな服装で大丈夫かしら」「でもあまり外にいないから大丈夫じゃない」「そうかもね、デパートの中歩くだけだし」「そうだよ」・・・こんな実の入っていない話を延々とするわけだが女というものはしゃべるのが大好きらしい。車内でも女性同士の会話はよく聞くがいたってくだらないことをトピックに話している。気持ちよく話せているのだろうか。いつも思う。

話を戻す。しばらくするとうなぎの養殖が盛んな浜名湖が見えてくる。思ったよりもかなり広い。本当に広い。向こう岸が見えるか見えないかぐらいだった。(そしたら琵琶湖はどれだけ広いんだ)しばらくすると朝早く起きたせいかドア横の手すりにつかまったまま寝てしまった。急カーブなどに差し掛かると膝がガクンと折れ、目の高さが一気に20センチ以上低くなった。5回位繰り返した気がする。車内は混み合い、酸素濃度が外気より3パーセント位低くなった気がした。ふらふらめまいがして本当に息苦しかった。正確な車両の編成は覚えていないが5両程しかなかった気がする。もうちょっと増やしてほしいものだ。この事を今後京都に着くまでに何回も思った。

名古屋。名鉄を始めて見る。(この地方はなんでも初めて)驚いたことにどれも一編成5両程度なのである。大都市名古屋という所でなぜ10両にも満たないんだ。とにかく、今乗ってきた新快速は金山に止まったにもかかわらず名鉄に乗るために名古屋で降りて金山に行く。その前に、Y君は名古屋駅にある味噌煮込みうどん山本屋に行きたいと言ったのでそこで昼食をとる事にした。最初、迷ったが店に着くと行列ができており、30分近く待った。うどんは硬めで非常に美味しかった。しかも注文してから10分しないうちに4人分来たのである。時間が押している中、助かった。急いで食べ、名鉄に向った。

名鉄急行名古屋駅12時16分発常滑行きに乗り、金山へ行った。当初の予定の12時24分発の新快速だと写真撮影の時間が数分しかない。結局一本後の30分後の新快速に乗る事にした。金山駅は決して撮影にとっていい場所ではなかった。駅施設などの障害物が沢山あり、歩道橋があって陰ができ、しかもその日お天気は曇りだった。そんな中でも名鉄は数多くの車両を走らせており十分楽しめた。次はJRのホームに入場し、撮影を続けた。っとその時金山駅にもいい撮影場所が会った事に気づいた。正確に言うとY君が言った。静岡方面側は丁度カーブが程よくかかっており、障害物も少なかった。しかも一時頃は太陽が西の方にやや傾き始めているため、全線を被光面から望むことができた。しかし残念なことに後数分で電車が来るのであった。

JR東海道本線金山駅12時54分発新快速大垣行き。これまた非常に混んでいた。京都にいくまでの間はあまり記憶に残っていない。ただひたすら電車に乗っていた。大垣で乗り換える。

JR東海道線大垣駅13時36分発普通米原行き。写真の左側の車両がそうである。途中、関ヶ原など田舎地帯を疾走する。駅も激しく寂れており、京都と名古屋を結ぶ間にこんな所を通のかと思ったほどだ。31日の豪雪がまだ残っていた。駅などのエスカレーターは立ち止まる人と進む人が左右に分かれているがどちらが右か左かは関ヶ原あたりを境に東西で入れ替わる。コレが正確にどこの駅で替わるのかを調査する特集番組を見たことがある。肝心な駅名を忘れたのだが関ヶ原前後2駅以内だったのは確か。テレビで映っていた同じエスカレーターを今、自分が見ていると何か不思議な感じがした。そして米原に着く。米原駅は大きいがまた淋しい駅でなかなか電車が来なかった。

JR東海道本線米原駅14時26分発新快速姫路行き。へ〜。米原から一気に姫路か。新快速の魅力の一つがこれであった。さらに写真を見ても分かる通り、223系1000番代という1995年に登場した比較的新しい車両で新快速運転用に導入された。これにより高速走行が可能なのだ。ここで首都圏と近畿・関西のいわゆるアーバンネットワークを比べてみたい。正直、横浜育ちの私には新快速は驚きだった。なぜこの新快速を首都圏でも走らせる事が出来ないのだろうか。まずは地理的な問題。アーバンの場合、京都〜大阪〜神戸〜姫路と発展した都市同士を結び合い後に名古屋まで延長され、太平洋ベルト地帯の中心を走っている。それに比べ、首都圏は東京〜横浜という短い距離しかなく強いて言えば埼玉が加わる程度である。もっと言うなら東京を中心に放射状に都市が小さくなる。でも逆に考えれば都市が近いから新快速なんて必要ないのかもしれない。しかしやはり首都圏の混み具合は半端ではないし1分でも早く目的地に着きたいものだ。だから一応湘南新宿ラインで特別快速というものをおいたがあまりパッとしない。なぜなら私鉄から乗り換えた後わざわざ特別快速を待ったところで元から駅の少ないJRでは普通電車に乗っても時間的に大差が出てこないのだ。そうなると物理的に列車のスピードを上げるしかない。E231系が走ろうとするがなんと昭和30年代に製造されたおんぼろ113系電車(私は気にって入る)がちんたらちんたら歩いている調子である。大都会を今の時代、旧式電車が走っているのは珍しい。横を走るE217系横須賀線がサーッと東海道線を抜かす光景も珍しくない。アーバンの223系だって最高時速130キロメートル出せるのである。113系が撤去されていくのも無理はない。いずれ全てE231系になれば首都圏の事情も大きく変わるだろう。っと思っているうちに京都に着いた。時刻はすでに三時を過ぎた。ここからは梅小路機関庫にいく私と大阪観光重視の三人とで1・2・1で別れる。日が沈みかけている。写真撮影に暗闇は一番の大敵だった。観光地では今回の旅行で一番楽しみにしていた梅小路機関庫に急いだ。

思ったよりも案内板が少なく迷いかけた。日没との戦いの時に迷ってしまったらお終いである。迷いつつ、西の方に進んでいくと突然「ボエー」という力強い汽笛が町中に響き渡った。一瞬で方角がわかり、今まで来た道が正しい事が分かった。また、汽笛が鳴った。まるで私を呼んでいるかのように。興奮が激しくなり、走った。真っ黒い煙が立ち昇るのが見えてきた。梅小路機関庫が運営する「スチーム号」だった。1乗車100円、500メートル程の短い距離を走る。東海道線で大阪方面から京都に来る時左側を見ると蒸気機関車があり何だろうと思う人も多いかもしれないが、実はこの「スチーム号」である。たまたま私が見たのは最終の便だった。もうしばらく歩くと博物館に着いた。中に入るとちょっとした資料館があるが真っ先に転車台に向った。SLファンの私にとっては言葉に表わせないほどの感動を覚えた。大きな扇形機関庫にずらりと蒸気機関車が並び、中央の転車台には先程スチーム号として走っていたC62が方向転換をしていた。その先はヤードがありそこにもSLやDLなどや客車があり、その向こうを東海道本線が走っていた。とにかく、巨大だった。転車台のC62は力強い汽笛を鳴らしながら回転する。あの汽笛を聞くと体の中のもやもやした物やむしゃくしゃした事が吹き飛ぶ。その後C62は左の写真のように石炭と水を補給する。その後、再び転車台で方向転換し、機関庫の中に帰る。1月4日だったのでまだ正月に取り付けられた注連縄と日本国旗がSLの先頭部に残っていた。黒光りする巨体に真っ白の日本国旗の姿は見事だった。機関庫には十数両のSLが残されているが実際に動くのはほんの数両である。実に悲しいことだ。日が暮れ始めたので、館内の資料館を見た。当時の蒸気機関車の活躍ぶりがよく分かる。閉館合図の音楽が流れ期待以上の迫力の展示に満足しながら退場した。

5時半ごろに京都駅に戻り、私鉄を含めた全路線の撮影制覇に向けて近鉄へ行った。ホームは大きな終着駅によく見られる3面3線後部統合型。ちなみにこの形式は車両撮影者にとっては苦だった。先頭車両を撮ろうとすると1回1回1編成分歩かなくてはならなかった。一両20メートルちょっとである。十両編成ならば200メートルの往復。大変であ何編成か撮ったあと、今度は京都市営地下鉄を撮りに行った。何とここでは録音のアナウンスまでが関西弁イントネーションだったのだ。はっきりいってこのころになると、あちらこちらで方言を使っているものだから気持ち悪くなってきた。方言=老人と思っていたのが金髪のいわゆる「ギャル」までが関西弁を話しているのだ。京都タワーを見た後、次にJRの写真を撮りに行った。500メートル以上ある、0番線ホームには驚いた。JRの広告で屋根の高い大きなホームの前でヴァイオリンを弾いているものがあったが京都駅であったことは知らなかった。外はすでに真っ暗で写真撮影には適していなかった。シャッタースピードが遅くなり、まず動いている車両は被写体ブレが起こり、手で持って撮影すると手ブレが起こる。ホームに止まっている車両を三脚を使ったり、カメラを手すりの上に置いたりして撮影した。列車が多く撮影には時間がかかった。すべての路線を撮り終わった後、東日本にはない京都線(東海道線)の新快速にまた乗車し大阪へ。やはり速かった。爽快。大阪駅では先にJRを撮り、その次に阪神を撮った。私が想像していたよりも大した事はなかった。壮観だったのは阪急だ。改札を入った瞬間、右にも左にもホームが果てしなく続いていたのだった。9番線もあり、プラットホームは10面あった。列車に初詣と広告用?のヘッドマークが付いていた。阪急を見終わった後、近くの本屋で時間をつぶして集合場所へ向かった。ここで全員が集まれるか心配だったが問題なく大阪駅御堂筋口改札前で20:30に集合した。

大阪駅21:00発東海道本線新快速姫路行きに乗った。大阪駅で買った駅弁を食べながら1時間程乗った。途中加古川で理由は忘れたがしばらく停車していたので0番線ホームを撮りに行った。加古川を出発すると間もなく姫路である。22:00到着。青春十八切符は特急電車には使えないのであらかじめ購入した寝台特急のあかつきとその乗車券、帰りの切符を私は全員分預かっていた。あかつきの特急券、乗車券を渡した。ついでに帰りの切符を渡そうかと思ったが無くすと大変だからと思って自分の鞄の奥深くにまたしまった。あかつきの撮影の役割分担をした。私が先頭を撮り、後の三人が後ろを撮る。我々は経費削減のため寝台席は取らず、最後尾の車両のレガートシートという飛行機座席並みの指定席を取った。だから私の鞄をK君に預け私はホーム先頭へ急いだ。

22:07発寝台特急あかつき長崎行き。編成がホームに対して思っていたよりも長く、ホームいっぱいに止まってしまったため写真はぶれてしまった。乗車した一号車からEF66のナンバープレートを撮り、一番後ろ14号車レガートシートへ向かった。途中車掌室でM君が車掌と話しているので疑問に思い、聞いてみたら私の鞄をホームに忘れてしまったと言うのだ。一瞬何を言っているのかと思った。「えっ、何だって?」「だからオマエの緑色の鞄がホームに置きっぱなしなんだよ。」「はっ?え、俺の?」「緑色のやつでしょ。」頭の中が真っ白になった。車掌は無線で姫路駅の駅員と連絡を取ろうとしていたが電波状態が悪いらしくうまくいっていない。14号車のソファー室まで行き、K君に聞くと他の人と同じ所に鞄を置き他の人が持っていってくれると思っていたらしく、慌てて自分のしか持って入らなかったらしい。鞄には旅行計画書、時刻表2冊、ビデオカメラ、MP3付ラジオレコーダー、筆箱、2冊の本、今年の新しい日記帳(旅のメモ入り)、電子辞書、家を出発する直前に持っていくかいかないか論議したセーター、そしてなんといっても帰りの寝台特急さくらの特急券と乗車券全員分入っていた。東海道線の中で渡しておけばよかったと悔やんだ。今年のお年玉で買ったものの大半が入っていた。今持っているのは財布と定期券入れ、学生証、携帯電話、カメラと三脚だけだった。車掌が私に鞄に何が入っていたか聞いてきた。その後、無線で姫路駅に連絡を取ろうとしてくれたがすぐ途切れてしまう。結局、誰かが姫路まで取りに戻ろうということになった。車掌から時刻表を借りて検討した。次の停車駅は岡山で23:12到着。姫路に行く新幹線はあるがまたあかつきに乗るための新幹線が走っていない。岡山のビジネスホテルで泊まるという案も出たが危険なのと金が足りないので結局翌朝新幹線が走り出す頃のに乗ることになった。みんなで持ってきた現金をかき集めてなんとか間に合った。あかつきは小倉に5:03に到着する。そして6:18発のJR西日本山陽新幹線ひかりレールスター新大阪行きに乗り姫路に8:15に到着する。誰が行くかだがK君になった。小倉を寝過ごさないよう、K君を寝かせておいて私とM君がソファー室で起きていた。M君は途中寝てしまい、やがて私も寝てしまった。K君が起きてソファー室に来て写真撮影をしていたので目覚めた。朝の3時ごろだった。そのあと小倉まで起きていて、無事K君を見送った。K君が姫路に到着した頃に彼に貸したY君の携帯電話に連絡したがこっちの列車もあっちの列車もトンネルが多くブチブチ途切れたが新幹線で寝過ごして新神戸まで行ってしまい、今引き返しているとのこと。おいおい。

九州はとんでもなく田舎だった。風景はとても美しく鞄のこと以外なら大変気持ち良かった。今回が初めての九州。長崎駅の近くに来ると運転停車でかなり長いこと止まっていた駅があった。何が通過するのと思えば特急かもめ。何だ寝台特急を待たせるのかよと思いつつ列車は発車。長いトンネルを過ぎた後、長崎到着。列車の写真撮影を終えたあと、一応計画通り出島に向かった。長崎駅で購入した長崎電鉄一日乗車券で乗車した。出島の施設をいくつか見回ったあとK君に連絡を取ってみた。鞄紛失確認。終わった。途方に暮れた。どこに行けばいいか分からなかった。とにかく帰れない。K君はこのあと姫路9:17発、博多11:31到着の山陽新幹線ひかりレールスターに乗り、博多12:02発、長崎13:53着のJR九州長崎本線特急かもめ17号に乗り2時ごろ長崎に到着した。

出島を適当に見終わったあと、中華街をふらついた。どうしようもなかった。長崎駅へ帰ろうと路面電車に乗ったところ、あれ?Y君がいない!どこ行ったんだ?次の停車場で降り、探そうとしたらY君が電車の中から手を振っているのだ。発車しかけた電車を止めて、また乗った。いつのまにかY君がワープしていた。しかしあせったものだった。長崎駅に到着するとK君と連絡した結果、JRに相談してみることにした。三人でみどりの窓口まで行くとYさんという若い坊主頭の駅員が相談に乗ってくれた。JRとしてはお金を貸せないので何と個人的に帰りの切符代を貸してくれるというのだ。本当に申し訳ない、と思いつつそれしか手段がない。一緒に事務室まで行った。事務室の来客用のソファーに座り、いろいろ話した。Yさんは東京で生まれたが長崎に引っ越して来られたそうだ。帰り道、何に乗っていくかを話し合った。新幹線で東京に11:30につく方法が浮かんできた。が、どうしても今回の旅行の目的の寝台特急さくらに乗りたいと思い、値段を聞いてみた。Yさんが電卓を使う速さはものすごかった。片手でパソコンのキータイピングより早く打った。結果、さくらの方が若干安かった。空き席を聞いてみたところ何と4席分空いていた。これは本当に神に感謝。奇跡だった。私とY君は横浜まで、K君とM君は東京まで乗車券を頼んだ。身分証明書がないかと聞かれ、私が学生証、M君が無線免許証を出し、コピーされた。そのつぎに各家庭に電話をし、いままでのことの主旨を説明し連絡を取った。もし、鞄が見つかった際のために切符払い戻しの方法を説明してくれた。そのあと、鉄道警察の警官に、状況を説明した。一緒に鉄道警察の駐在所(駅事務室の隣)に移動し、拾得物横領の可能性があるとして被害届提出の手伝いをしてくれた。2時ごろK君が到着し駐在所に来た。被害届はK君が私の所有物を盗まれたということになり、印鑑代わりにK君が親指で届けに押印した。鞄のイラストも書き、姫路駅のどこに置いてあったかも書いた。この被害届は姫路警察署に転送されることとなった。全ての作業が完了したあと、警官にまた長崎に来いよと言われ、親切にしてくれたYさんからはさくら出発前にまた顔を出してとの事だった。

1時間ぐらいあったのでM君とY君は中華街へ行き遅い昼食を取り、私とK君は長崎電鉄の写真を取ることにした。コンビニでおにぎりを買い、隣の停車場八千代町まで行った。古い車両から最新の車両まで多種多様の車両が走っていた。4:30頃、長崎駅で合流しまたYさんのところへ行った。待合室で少し待った後、私に売店まで一緒に行こうと言われ何を買うのかと思ったらオロナミンCを4本買って、「これでも飲んで元気だせや」といって渡してくれた。なんて親切な人なのだろう。一緒に待合室まで戻り、御礼の挨拶をした。また長崎に来てと言われ別れを告げた。

長崎16:50発寝台特急さくら東京行き。さくらの写真を撮り、客車の前で4人の集合写真を撮った。使命を終えたかのように私の三脚は撮影後、壊れてしまった。座席は11号車の8、9番の上段二つだった。旅の話をし合い、写真を見たり、本を読んだりなかなか楽しかった。途中門司で牽引車交代と寝台特急はやぶさの連結が行われた。写真も相当数撮った。全員デジタルカメラを持ってきたからどうせなら写真を分け合おうということでM君が持ってきたパソコンをはやぶさのロビーカーの電源につなぎ容量に余裕のある私のメモリーカードにすべての画像を転送した。後日、DVDにしてみんなに渡した。ずっとさくらに乗って分かったことだがとなりの4席の寝台席は一度も使われなかった。切符を紛失した我々の座席だったのだ。よりによって

朝5時、やはりよく眠れず早起きしてしまった。きれいな朝日が見えた。空が赤色に包まれ美しかった。京都をちょうど出発した頃だった。やはり遅い、まだ京都。それでも行きに見てきた風景を倍速くらいで見た。名古屋、豊橋、静岡と乗り続け、10時頃に熱海に着いた。いよいよ近くなってきた。小田原、大磯、平塚を通過すると旅の終わりを感じ始めて改めて旅を振り返る。いろいろあったな。大船、戸塚、東戸塚を通過し、横須賀線を見下ろしながら保土ヶ谷を通過。いつも通学に使う相模鉄道を高速で追い抜いた

11:07、K君・M君と別れ、列車の写真を撮った。私の好きなEF66はやはりかっこよかった。これがまもなく廃止されると思うと悲しくなってくる。

Y君とも別れ、久しぶりに見る相鉄10000系に乗り込み帰宅した。

   
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送